心学商売繁盛塾~道徳なき経済は、罪悪である。経済なき道徳は、寝言である~

先日、前々から気になっていた近所の魚屋さんに行ってみた。


こじんまりとしたお店なのだが、地元のお客さんにとても支持されているお店だ。


買いたいものを選び、会計の時。


小銭を出そうとした矢先、「それいいから、おまけね。」とニコニコしながら言われた。


ヤラレタ!


自分は、お金がなさそうに見えたのだろうか?


ぷっ!


店主の温かさに心を撃ち抜かれてしまった!


釣りはいらないぜ!というのが、周りで流行っているようだが、見事にその逆をやられてしまったのだ。


今度は、自分がリベンジしてやる!と心に誓ったのであった。


ちなみに、刺身も総菜もめちゃくちゃうまかった。


完敗だ!


4月26日(月)心学読書会

天才軍師と言われた諸葛孔明。

勝ち続けていた状況で放った一言が面白い!

「次は、敗けろ。」

この言葉は、僕にとっても深い意味を持つ。

物事が右肩上がりに順調に進むとき、そこに潜む罠があると感じることがある。

それは、単に僕の小心の為せる技かと思う反面、ある法則にも基づいているようにも思える。

会社に勢いがついてきたとき、さらなる事業展開で攻める経営者は、今まで多かったのかもしれない。

また、売上を上げることに重点を置くコンサルティングの先生方も多かったのかもしれない。

しかし、今の時代と人口減というこれからの時代状況を考えてみると、「売り上げを下げられる」ことが、求められているのでは?と率直に感じるのだ。

「食っていけたら、それで良し。」

これを心底思えたら、判断を誤ることは、まずないだろう。

ところが、人間は欲深い。だからこそ、勝ち続けたくもなる。

同時にそこでは、必ず私欲が働く。

もっと、売上を!なんてことを思う前に、立ち止まって考えること。

何を考えるかと言えば、自分の心のあり様。

売上、利益が上がるほど、「動機善なりや?私心なかりしか?」を繰り返し自分自身に問い続ける必要があると考える。

さらなる成長よりも、目指すはさらなる(人間や組織の)成熟なのではないか?

SDGSといった流れができつつも、やはり未だに社会システム上、事業においては右肩上がりが強いられている。

また、人々の観念の中にも経済成長神話なるものがこびりついているようにも思える。

だからこそ、逆に敗けることによって、人間として目指したい方向性が明らかになってくるのではないだろうか?

令和の時代は、勝ちつづけることをあきらめることによって、何をもって道理と呼ぶのか?を明らかにしなければいけない時代に思える。

経済の拡大成長路線をそれたところに、真の人間らしい暮らしがあるように思える。

渇くことのない、潤いのある生き方。

それを幸福と呼ばずして何と呼ぼう。

4月26日(月)心学読書会

「安定を求めることは、悪いことではない。」

学生だった頃に聞いたこの言葉。

納得しつつも、どこか違和感を持っていたことを昨日のように思い出す。

その違和感の正体は、長い年月を経て、徐々に明らかになっていった。

安定と自由とは、相反する。

しかし、安定を求めるほど、不安定を握りしめることになる。

一方で、不安定な自由に身を投じることによって、安定が意図せず手に入る。

安定も不安定も、そもそもは分けられるものではない。

己自身の不明を恥じたい。

そして、自由とは、真理に近づく一歩でもある。

近づくほどに嘘、欺瞞が見えてくる。

これを見識と言うのだろう。

であれば、国民として僕は安定を求めたくはない。

公民として、見識を深めるのが義務なのだ。

4月26日(月)心学読書会

安定にしがみつくほど、人間は堕落するものだ。


政府を攻撃したからといって、その言論は必ずしも過激なものとはいえない。政府が潰れたから国家も、すぐ潰れたということは、絶対に無いわけである。政府が国家を治めていく、その方針や手段が、国民の意に背いている時、国民は遠慮なく政府を攻撃して、当路者の引退を迫るのは、国民の権利であり、これをもって過激なる運動とすることは、決して正当な判断とは言えない。

人間の寿命が永久につづかないのと同じように、政府の寿命も短いものであるのが、真の事実である。政府のほうでどんな不都合を働いても、国民は、絶対に屈従していろということほど、不条理なことは無い。(以上 国会開設と政党秘話より引用


仕事などの日常が忙しすぎると、読書などしている場合ではない。

なんてことを考えていた過去がある。

忙しいときに、呑気に読書などしている場合ではない。

このように考えられるのが、普通なのかもしれない。

不精な多忙という言葉がある。

それは、大切なことをないがしろにすることであり、大事なことを先延ばしすることでもある。

大切なこと、大事なことを多忙の中だからこそ、気づかせてくれるのが、僕にとっての読書だった。

それをしないでいいわけがない。

不精な多忙に流されていいわけがない。

今の自分は、そう考えている。

3月22日(月)心学読書会

相対の世界で生きるより、絶対の世界で生きたほうが、遥かに愉しい。


勝った顔でいるよりも、負けた者の痛みを察する人でありたい。


負けた顔でいるよりも、素直に現実を受け入れられる人でありたい。


勝っても、負けても、同じ顔。


淡々とした顔の裏には、エネルギーに満ち満ちた心ありき。


2月22日(月)心学読書会

自分の仕事とは、全く関係なさそうな本と人との出会い。

そうしたところに商売繁盛につながる根源的な考え方やヒントが、必ずあります。

売上の状況に悩めば、その解決してくれそうな本や情報に飛びつく気持ちは、わかります。

しかし、問題は売上の状況ではなく、自己の心のあり様やふるまいにあると自分は考えています。

ですから、より深く商売というもの、人間というものを考えていく必要があるのです。

視野を広げるとともに深めることが、物事の原理原則に気づかせてくれるのではないでしょうか?

真理に対して素直であることが、人間には求められています。

そして、答えを得るのではなく、問いを深めていくことで、問題に潜む意味を考えていけるのではないでしょうか?

人間の進化と向上のために商売は存在します。

1月25日(月)心学読書会本日開催

お金の使い方と仕事の仕方。

これ、すごく密接につながっていると思います。

どこよりも安く仕入れて得をしたいという思いと誰よりも高く売ってできる限り儲けたいという思い。

全く同じではないでしょうか?

友人、知人の店から適正な価格で商品を買って儲けてもらいたいという思いと適正な価格で顧客に商品を提供し、適正な利益を得たいという思い。

これも全く同じですよね?

では、質問。

商品を買うときに、どのような思いで買っているのでしょうか?

もしも、そこに品格のかけらもなければ、自身が提供している仕事にも品がないと自分は捉えています。

最も得をしたいという心が、最も損をさせている。

人間のふるまいというものは、不思議なものですべて逆に出てきてしまうものです。

一時、「国家の品格」なる書籍が流行りましたが、そのベースにあるのは「庶民の品格」ではないでしょうか?

1月25日(月)心学読書会

「車のことだったら、いつでも僕に相談してください。何でも結構ですよ。」

以前、車を購入した時の営業さんが言っていた言葉。

そして、そこから始まった縁。

先日、車のキーの調子が悪く、診てもらった。

たいしたことのない問題だったのだが、とても丁寧に対応してもらった。

売れる、売れない関係なく接していただいているので、接客がとても心地いい。

実に単純で、実に純粋。

だけど、これがなかなかできない。

なぜかといえば、経済活動には私欲が絡むから。

だから、仏教、禅、易経、老子などといったことを学ぶことが、不作為の売上に直結していくともいえる。

でも、ここで売り上げのためなんてことを考えていたら、こうしたことは一切役に立たなくなる。

さて。

経済活動をつうじて、僕らは何をしようとしているのだろう?

そして、何になろうとしているのだろう?

2021 心学商売繁盛塾

地震がこなければいいとか。

戦争などなくなればいいとか。

あるいは、コロナがなくなればいいとか。

そうした誰もが願ってしまうようなことを願うことが、当然だ。

と、するようなご都合主義が、かなり蔓延していないだろうか?

地震は起きるものであり、戦争も必ずどこかで起きてしまうものであり、ウィルスだって永久になくなりゃしない。

科学がこれだけ進歩しても、我々人間がどれだけ科学的に物事を把握できているのか?疑問に思うことがある。

自分可愛さから、かえって物事の歪みに気がつけないことだって多々あるのだと思う。

周りと一緒になってワーワー騒いでも何も解決しない。

むしろ、独り静かに考える時間の重要性が、さらに増したように思える。

自分の都合では周りは動いていかない・・・科学的思考とは何か?

僕はそんなところを探求していきたい。


本日、今年最後の心学読書会

宇宙は、ビッグバンという大爆発から生まれたといわれる。

つまり、破壊から創造という流れにあるのが、宇宙の法則だ。

また、創造は必然的に破滅に向かうともいえる。

自分たちが生きているこの地球も様々な恵みを与えてくれている太陽も例外なく破壊されていく。

しかし、破壊のみならずそこから新たなものが生まれてくる。

その変化してやまない繰り返しの中に生きている。

ところで、破壊には二種類あるという。

1つ目は、進化。

2つ目は、煩悩執着の破壊。

精神的な成長なんて言葉がよく使われるが、それは前者の生き方。

死という破滅に向かって突進していくような生き方ともいえる。

孤高の生き方、独立独歩とも言い換えられるのだろう。

では、後者は?

近頃のテレビを見ていてふと思うことがある。

ノーベル賞受賞者といった権威や著名人、一定の権力者の言うことをうっかり鵜呑みにしかねないなと。

この「うっかり」が、紛れもない後者。

人間の進化の道は細く険しい。

だから、すぐに踏み外したり、恐れを抱いて後戻りしたくなる。

結果、死や病を必要以上に恐れ、束縛という安定、安心の中に潜りこもうとする。

破壊と創造を繰り返し、変化してやまない宇宙の法則。

この絶対法則に支配されている地球においてそのような安定、安心はない。

にもかかわらず、どこかにあるとしてしまう依存心。

本を読みつづけていなければ、自分などはすぐにこの「うっかり」にはまりこんでしまう。

自分たちは例外なく死という破滅に向かって生きている。

しかし、その破滅とは、新たな創造を生み出す必然であり、人間ごときが動かしえない法則でもある。

幻のような幸福、安心をつかもうとしては、人間の進化が阻害される。

それは宇宙の法則に反し、本来の魂の欲求にも反することでもある。

苦に飛び込んでいく勇気が、真の直感を生むのだろう。

毒を喰らって見識を深めよう。

12月28日(月)心学書会

昨日の心学読書会の冒頭で出てきた「習合」。


その中で共感というテーマが挙がった。


独断でいえば、自分はそれほど「共感すること」を重視していない。


もちろん、商売上でも人間関係上でも必要な感性だとは思う。


その反面、それが第一義ではないと考えている。


ネットニュースやSNSを見ると、「共感してほしい!」が、あふれているように思える。


そして、逆の「反発しよう!」もあふれていると感じている。


政治についても、巷の事件事故についても、子育てについても、共感することが、求められている。


そして、空気感を読んだ無難な考え方とはまったく異なる視点、価値観を批判するような反発も、同じように求められている。


共感も反発も同じ次元の話に過ぎない・・・。


もちろん、共感も反発も人間社会である以上、あっていい話。


あっていい話であるが、第一義にくるものではない。そこをはき違えているのではないか?と思えなくもない。


第一義にくるものは、組織であればその存在目的や理念であり、個人であればなぜ生きるのか?なぜ今の仕事をしているのか?といった目的や哲学のはず。


そこを深く考えることなく、いきなり共感しようといったって無理という話だろう。


以前、ある組織で目的を見失い、共感を追い求めるようになった途端にバラバラになったことがある。


あるいは、私個人であれば、不安や恐怖にあおられて周りと同じように不自由を甘んじて受け入れていく。


そうしたことの第一の原因は、共感が第一といった薄っぺらいヒューマニズムがあるためだ。


それほど、組織にしても個人にしても縦の意識が薄れてきている。


共感か?反発か?で右往左往するのではなく。


共感も反発もすべて呑み込んで前に進むことが、人間の進化だと自分は考えている。


もうダメだと思った時こそ、前に出ていこうとする気概。


それこそが脱人間なのでは?


数年前、読んでもチンプンカンプンだった本が、理会できるようになる。


これって、単に知識や語彙力、読解力といったものが原因がではないと思う。


もちろん、専門的な本になればそういった知識が必要とされるけれども。


実際に自分が仕事などをとおして体験していかなければ、わかることではないよね。


やってきたことでなければ、語れない。


そして、やってきた蓄積から魂が共鳴しなければわからないのが、読書なのでは?と最近はつくづく感じる。


その道を究めているような、いわゆる達人の言葉が、よくわからない。


そうしたことは、自分にはよくある。


それは、自分の体験を通じてそのことがわからないということ。


それは、その境地にはまだまだ自分は至っていないという未熟さでもある。


読書って、単なる知性に依るものではなく、そういったことを残酷なまでにわからせてくれるものだと思う。


知性でわかったつもりでいれば、かえって未熟さを曝け出すことになる。


読書の世界でも、商売の世界でも同じじゃないかな?


11月9日(月)心学読書会


生きることは、体当たりだ!


へへへ。