ある著名なカリスマ経営者が国外逃亡をしたことが、大きく報じられている。
おそらく今後は、諸外国へ向けて自己の正当性を主張していくのだろう。
ところが、歴史を振り返ってみれば、自己の正当性を主張することなく、従容として死刑に処されていった大愚がいる。
自己が主張したいことも言えず、理不尽と思われる処遇を受けるとすれば、人間はどうなるのだろう?
怒りをぶちまけるのだろうか?
あるいは、愚痴、泣き言を言うのだろうか?
あるいは、別の場所で自己の正当性を大声で主張していくのだろうか?
凡人であれば、きっとそうする。
自分も憤懣やるかたない思いをずっと抱き続けるだろう。
そのうちのどれもすることもなく、ただ喜びと共にその処遇を一身に引き受けるとすれば・・・。
それは、死刑であり特攻でもあった。
そのような極限の状況に置かれた人間が、微笑と共に現実を受け入れていく姿を見たとき。
人間の器は、こうまで大きくなっていくものなのかと感嘆せざるを得ない。
ある方が、次のようにおっしゃっていた。
人間は、自己を考えないほどに器が大きくなるものなのだと。
一番ではなく、一流を目指す。
その一流とは、一体何か?
カリスマは限られた人間にしかなれないのかもしれない。
しかし、一流はきっと誰もがなれると自分は信じている。
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