正受と不受

形山睡峰著「禅と哲学のあいだ」より

たとえば夏になれば、大地は草々の繁茂である。しかし草が生えるのは、草だけの単独の力ではない。土中に含まれる多くの養分や水、空気や光の力に与っての繁茂である。草は自身の本分を否定して、土中の養分や水や光を取り入れることで、かえって草自身の繁茂力を大きくさせてゆく。もし、外から与えられる物をいっさい拒否して、自身だけを頑なに守ろうとすれば、すぐに枯れて終わるだろう。それだけではない。もし草々がみな、外からの物で自身が否定されることを拒否したなら、土も水も光も空気も用がなくなってしまうから、結局、自然は滅びるほかなくなるのである。この世の物はみな、互いに自身を否定しあうことで、確かに存在してきたのである。


他者と比較する気持ちや自分を第一に考える気持ち。


こうした気持ちは、自身の幼子らのふるまいを目にするたびに人間に根深くある欲からくるものなのだろうと思えます。


そして、自分もこのように育ってきたのだろうと思います。


平和を願いながらも争いを積み重ねてきた人類の歴史というものもなんとなく理会できてくる気もします。


ところで、前述の文中にある否定という言葉を自分は、空っぽと解釈しました。


自分を空っぽにすることによって、我欲から解放されやすくなるのでは?と思います。


目の前の仕事に文句を言う前に、まず全力を尽くしたほうが周りも生きてますし、結果、自分自身も愉しくなっていきますよね。


自己の生存本能に基づいた我欲が根深いがために自身を空っぽにすることに恐怖を覚えるのが、人間の心なのではないでしょうか?


自分を否定することは、なんだか負けた気にもなるし、存在意義がなくなってしまうようにも感じてしまうのでしょう。


ところが、自分というものを無くすほど他を益していくのが、仕事の世界でしょうし、それらは日常にも通じてくるとも思います。


自分の心のあり方を省みると、やはり様々な感情、固定観念といったものに囚われがちです。


そして、その囚われが、より一層、我という意識を肥大化せしむるような気もしています。


であれば、逆に自分のことは横に置き、まず、人を喜ばせてみようという真理に通じる道が、ここに生きてくるようにも思えるのです。


どうやら、自分を空にすることで自他共に益するように人間社会が創られているようです。


その創造の根源には、人間の人智ではなかなか及ばない神なのか仏なのか、そうした大きなものという存在があるのでしょう。


そこに少しでも近づかんがための読書であり、仕事であり、そして日常なのだと改めて感じてしまいました。


大欲に生きようとすることが、やはり人間には求められているのでしょうね。


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