飯島貫実著「生きた法華経」より引用
人間は、何故に、容易に、自己の円満完全さ、即ち仏性を信じ得ないのであろうか?のびのびと本来の完全さを見て行ったら楽しいものを、背を曲げてまるで蟹のように卑屈になります。無限の富を持つ長者の息子であるものを、惨めな乞食だと思っています。それが理屈の上では、自分は仏であると悟ったようであっても、実際の上では、至って低い自己評価をしています。それは何故であろうか?それは、愛の不足に依るのです。人を愛せず、人の仏性を拝むことなしに、人間は、自己の評価を高く保持することは出来ないのです。生命は、本来自他一体です。
昔、父親を亡くしたときのことを思い出します。
生前は、それほど父親に遊んでもらったという記憶はありません。
強い関心を払われていたという印象もなく、どことなく自分勝手だなと父親に関して自分はずっと思っていました。
だから、父親が亡くなったとしても、おそらく自分は泣くことはないだろうとずっと思っていました。
ところが、実際に亡くなってみると、夜中に思い出し、涙が止まらないのです。
結局、一睡もできずに葬儀を迎えたことを思い出します。
最期に感謝の思いを手紙にしたため、棺の中に入れました。
生前では、全く考えられないようなことを実際の自分はしていたのでした。
ところで、仏性とは何でしょう?
禅の本などでは、命あるものすべてに仏性は備わっていると言われています。
人は死ぬと仏になると言われています。
実は、生前はロクでもない親父だと思っていた自分が、死後には、感謝の念しか湧かなくなっています。
父親は父親なりにいろいろな場面で苦しみながら、精一杯育ててくれたのだと確信を持てるようになっているのです。
自分の中には、父親への悪い印象や記憶など全くなく、生前自分にしてくれたことしか思い出せません。
死者が仏になることによって、自分の中にある仏性を思い出させてくれているように感じています。
そして、今度は、今生きている人、今縁ある人の仏性を拝める自分であるように精進していかなくてはと思っています。
「人は、自分なり。」
そもそもは、自分という存在は本来無いという・・・。
この言葉の持つ深い意味を掴めるように。
自他を分けてしまえば卑屈に陥り、自他一体の和合に心を向ければ自ずと慈悲と謙虚さが生まれる。
なんだか、そんな気がします。
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