人は死んでからどこに行くのか。後世というもの、死んで行く先、そういう自分で知りもしない死後の世界のことを、ああだこうだと決して人に教えめされるな。
いまは仏教でも禅でも自分につかんでいないものつかんでいるような顔をして教え示す。大学の教授ならばそれでよいかもしれないが、禅者が、自分の確信を持ってつかんでいないものを人に示す、それは嘘になる。
心学の祖石田梅岩は、正直ということの重要性を説いています。
では、石田梅岩は、何に対しての正直を伝えようとしていたのでしょうか?
先日、なるほど!と強く膝を打ってしまう回答をいただきました。
それは、「神仏に対して正直」ということです。
自分が為していることが、神仏に対して嘘偽りないものと言えるのかどうか?
これは、自分自身胸が痛いですね(笑)
神仏というものが外側にあるというよりも、むしろ自分自身の内なる声、本心、良心という解釈を自分はしています。
先ほどの引用文は、仏教や禅について書かれていますが、これは日常生活や仕事の面においてもまったく同じではないでしょうか?
自分で確信をもって掴んでいないことを掴んでいるかのように語る時、自分はとても嫌な感覚を覚えるのです。
自分の本心が、やましさを感じとっているからでしょうね。
同じく先ほどの著書に次のようなことが、書かれています。
(あるカルチャーセンターで)いろいろな学者が来て華厳教の解説をした。それを聴講したある女性がこういうことを言っていた。ある講師が、「さて、実は華厳は難しくて、我々にも字の解釈はできるけれども、本当の華厳というものは分からない。」こう嘆声を発したという。華厳経というお経の文字の解説はできるが、その世界を本当に体現していないから、実際のところは分からない、と。
こういうことを正直に述べる勇気がある人というのは、信頼に値する人だと自分は考えています。
だから、現実にはしょうもない自分ですが、自身もこうした人になりたいものだとも思っています。
そして、その方向に生きようと心がけていると、なんとなく嘘が見抜きやすくなっていくような気もしています。
わかってもいないことをわかったかのように発する言葉は軽く感じ、自身の現実、本心を踏まえての言葉はとても響いてくるのです。
その感覚が、どう生きたいか?の自身の心掛けによって磨かれていくように感じているのです。
それは、こうしたブログであっても、書籍であっても、会話であっても、講演であっても、広告であっても、一貫して貫かれている原理原則のようにも思えます。
その読書会の初めに石田梅岩の言葉について、それぞれの考え方を述べる時間を設けています。
おそらく、石田梅岩と聞いてもあまりピンとこない方も多いのではないでしょうか?
ところが、渋澤栄一や稲盛和夫といった人物はほとんどの方がご存知でしょう。
日本を代表するような経営者の方々にも多くの影響を及ぼしています。また、その方々から学んでいる方々にも当然ですが、影響を及ぼしています。
日本の商人哲学という面で今でも多くの日本人に多大な直接的、間接的影響を及ぼしているのが、石田梅岩です。
仏教、神道、儒教、陽明学といった学問と実践から古来からある日本の武士道にも伍する商人哲学を導き出しています。
本人は残念ながらあまり有名ではありませんが、日本人への影響という面では多大な貢献をされた方です。
遺してくれたことを次につないでいくためにも、しっかり学んでいきたいです。
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