自分が、存在している。
普通は、こう言います。
しかし、これを逆転させると「存在が、自分している。」となりますよね。
なんのこっちゃ?という感じです(笑)
存在という大いなるひとつの命が、たまたま自分というものを現象界に出しているという解釈もできます。
それは、自分ではなく花であってもよかったでしょうし、今、外で鳴いているセミでもよかったのでしょう。
こう考えてみると、自分という特定の存在などは、そもそも無いという理屈がなんとなくわかってくるような気もしてきます。
自他を区別する、あるいは、現象界に存在する不自由といったものが、錯覚だったと認識もしやすくなります。
未熟な自分は、特別な存在でいたいという自我に汚染されやすいのです。
しかし、そもそも自分という存在など無いということをとことんつきつめれば、自ずと謙虚にならざるを得ないでしょう。
自分が苦しんでいるものは、そもそも錯覚なのだと心底気づける日は、いつになることやらという気もしますが・・・(笑)
以前、稲盛さんがお話しされていたことを「生きた仏教」を読んでいるときにふと思い出しました。
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