共感が求められる社会

昨日の心学読書会の冒頭で出てきた「習合」。


その中で共感というテーマが挙がった。


独断でいえば、自分はそれほど「共感すること」を重視していない。


もちろん、商売上でも人間関係上でも必要な感性だとは思う。


その反面、それが第一義ではないと考えている。


ネットニュースやSNSを見ると、「共感してほしい!」が、あふれているように思える。


そして、逆の「反発しよう!」もあふれていると感じている。


政治についても、巷の事件事故についても、子育てについても、共感することが、求められている。


そして、空気感を読んだ無難な考え方とはまったく異なる視点、価値観を批判するような反発も、同じように求められている。


共感も反発も同じ次元の話に過ぎない・・・。


もちろん、共感も反発も人間社会である以上、あっていい話。


あっていい話であるが、第一義にくるものではない。そこをはき違えているのではないか?と思えなくもない。


第一義にくるものは、組織であればその存在目的や理念であり、個人であればなぜ生きるのか?なぜ今の仕事をしているのか?といった目的や哲学のはず。


そこを深く考えることなく、いきなり共感しようといったって無理という話だろう。


以前、ある組織で目的を見失い、共感を追い求めるようになった途端にバラバラになったことがある。


あるいは、私個人であれば、不安や恐怖にあおられて周りと同じように不自由を甘んじて受け入れていく。


そうしたことの第一の原因は、共感が第一といった薄っぺらいヒューマニズムがあるためだ。


それほど、組織にしても個人にしても縦の意識が薄れてきている。


共感か?反発か?で右往左往するのではなく。


共感も反発もすべて呑み込んで前に進むことが、人間の進化だと自分は考えている。


もうダメだと思った時こそ、前に出ていこうとする気概。


それこそが脱人間なのでは?


心学商売繁盛塾

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