手段

今から約30年くらい前。

自分が学生時代だった頃の話(あっという間の30年だな・・・)

日本はバブルで景気が良く、女性が男性に求めているものが3K(高学歴、高年収、背が高い)だったように記憶している。

どんなタイプの男性が好きか?と聞かれれば、年収1千万円以上で、背が高くて、男らしくて・・・な~んてことも女性がよく言っていたようにも記憶している。

不景気がずっと続いている近年からすると、信じられないくらい、ある意味では恵まれていた時代だった。

そんな恵まれた時代をもう一度・・・のように経済成長なんて言葉がいまだに使われている。

では、それだけ根強く求められる景気の良さとは、一体何だろうか?

経済的に豊かであれば、人間は本当に自由で幸福になれるのか?という質問に言い換えることもできる。

以前、築年数のだいぶ経ったアパートに妻と子どもとで住んでいた頃があった。

やむにやまれない理由もあり、現在は戸建て住宅で暮らしている。

でも、アパート時代と今とではどちらが幸福か?といえば、どちらも変わらない。

夢のマイホームなんて言葉が一時期流行っていたようだが、そうした夢を掴んだとしても、高揚感は一時的なものでしかないと思う。

今乗っている車にしてもそうだ。

もしも、ベンツやフェラーリに乗っていたら、もっと幸せか?といえば、そうでもない。

自分は車にそれほど興味がないので、余計にそう思う。

要は外形的なものはどうでもよくて、食えていればいい。

では、なぜこのように考えるようになったのだろう?

それは、少しずつだが、命を手段と捉えるようになってきたからなのかもしれない。

別な言い方をすれば、ほんの少しでもいいから周りに善くしていこうとする愉しさに少しずつ気づいてきているからなのかもしれない。

だから、そうした意識を主に提供してくれる仕事は人間にとって、とても大切なものだと考えている。

幸福になれそうな物質的条件を欲するほど命は堕落する。

命が第一になってしまうから。

だけれども、より次元の高い目的のために命を手段として使ったとき、人は本当の幸福感を味わうことができるのでは?

少なくとも、自分にはそんな気がする。

いずれにしても、命を手段として使い、食っていければ、それだけで十分じゃないか?

と、思う。

でも、そうした類の言葉が、あまり見受けられないのはなぜだろう?

2020年7月27日(月)心学読書会


心学商売繁盛塾

商売の根っこにあるものを掘り下げ、人生の繁盛と商売の繁盛を目指す。