最近は、つくづく己の無力さを痛感したいと感じています。
なぜなら、無力を見つめなければ、物事の真相は見えてこないように思えるからです。
ところで、善人であることと、善人であろうとすることの違いは、どこにあるのでしょうか?
似ている言葉であっても内容と意義は、天と地ほどの差があると考えています。
善人であることとは、己の中にある悪魔性を観ないでいること。
反対に悪魔性が観えてしまえばこそ、そこから善人になろうとすることが、善人であろうとすることです。
自然の猛威と恩恵を感ずればなんとなくわかるように
何が仏で何が鬼なのか?
そして、何が神で何が悪魔なのか?は、まったく判然としません。
同様に何が善で何が悪なのか?も、本当はわかりません。
こうした混沌の中から自分が考える善に向かおうとすることが、人として生きていくことなのではないか?と感じることがあります。
混沌とは、苦しみに他ならないと自分はとらえていますし、人間にとって必要で大切なことなのだともとらえています。
こうした観念もなく「生きている」動物と「生きていく」人間の違いは、ここにあると感じています。
ところで、無といえば何を思うのでしょう?
「何も無い。」それだけでしょうというのが、我々現代人の特徴的な思考かと思われます。
だから、もっと「有益なもの」を欲し、「有力なもの」になろうとします。
しかし、それは我欲にすぎません。
人間は無に徹しようとしたとき、そこに自由自在な境地が見えてくるのではないか?と最近、自分は思います。
欲を満たすことではなく、欲を捨て去ろうとするところ、我欲を超えようとするところに真の豊かさと充実が生まれてくるのではないか?と思えるのです。
0コメント