「新婦驢に騎れば阿家牽く。」
これは禅語のようですが、嫁さんがロバに乗り、姑が手綱を引いて歩いている光景を思い浮かべればいいようです。
そうイメージしたとき、おかしいだろ!?と思うのが、普通なのでしょうね。
本来だったら、年寄りの姑がロバに乗るべきで、けしからん嫁だ!となるわけです。
しかし、これこそがとらわれだよとを諭しているのが、この禅語の真意だそうですよ。
いろいろな事件や事故のニュースが、毎日怒涛の如く流れてきます。
しかし、その情報は、当事者としての1次情報ではなく、ある人(マスコミ)を通して2次以後の情報という点に着目する必要があると感じています。
目まぐるしく変わっていく世の中であればこそ、立ち止まって考えることが逆に問われているとも言えそうです。
表面上の情報を受取れば、簡単に善悪を判断してしまいがちですが、すこし視野を広げて想像力を働かせてみるとどうでしょう?
先ほどの嫁と姑も別の角度からその関係性が見えてくるのではないでしょうか?
以前、どなたかがおっしゃっていたのですが、情けに報いると書いて情報となります。
戦場の最前線にいる戦士にとって、何がもっとも重要で命が助かることなのか?
このことを念頭に指揮官が悩みに悩んで発信するものが、そもそもの情報なのだそうです。
簡単に便利に情報を扱えるようになった故に元々の意味とだいぶズレてしまった感があります。
が、その根源的な意味で判断できるよう想像力を働かせていければ、変な間違いや誤解も起こりにくくなっていくようにも思います。
わかった気になって簡単に判断してしまいがちな自分の思考に、時に待ったをかけることも大切なのでしょうね。
ところで、物事には正解はないし、正解にたどり着くことが大事なのではないと聞くこともあります。
確かにそういう面もあるのでしょう。
ですが、物事を生かそうとする発想、心から生み出されるものが、人間が進化していく上での本来の正解なのでは?と最近は思います。
世間の評価は二の次に、最も大切なのは、己の心のあり方から始まるような気がしています。
0コメント