先日の心学商売繁盛塾の読書会で話題になった「労働観」についてです。
今の社会問題の根底にあるのが、この労働観に帰結するのでは?という見解を自分はもっています。
まっとうな労働観、人生観をもちえないがゆえに、様々な事件や事故が起きると言える気がするのです。
何とも情けない話ですが、自分自身の過去を省みると、かなり惰弱な労働観しかもちえなかった青年時代があります。
ひょっとすると、今の若者については(もちろん、全員ではありません)、さらにその惰弱さに拍車がかかっているのでは?という感覚すら覚えてしまうのです。
なぜなら、個人にとって都合の良い、便利で快適な世の中になっているためです。
裏を返せば、人間が腑抜けとなってしまうシステムが出来上がってしまっているからです。
自分が若い頃は、時給が高く、待遇が良く、楽な仕事を選びたいと思っていました。
今、振り返ってみるととんでもない話なのですが、その原因はというと「無思考」に起因しているように思えます。
なぜ、生きているのか?あるいは、なぜ、働くのか?
そうした哲学的で根源的な思考の欠如を無思考と自分は捉えています。
無思考の結果、娯楽が一番となりますし、楽できて、ほどほどにお金が稼げていければそれでよしとする薄っぺらな発想のみになっていきます。
ところが、魂はごまかせません。楽な生活とは、虚しく苦しい生活でもあるからです。
自分を捧げる何かが欲しいと本来の自分は望んでいたのだと今振り返ると感じます。
なぜ、時給が高く楽な仕事を選ぼうとするのか?
なぜ、偏差値の高い大学に行こうとしていたのか?
なぜ、自分が得できるように安い商品を選ぼうとするのか?
そうしたことの根底には、自分本位の思考や過度な自意識というものがあると感じています。
一言で言えば、もてなされるお客様思考から卒業できていないとも言えます。
しかし、そこにとどまっていては、決して自分の魂は納得しえるものではありません。
自分自身が何か価値あるものを生み出し、世の中に提供しようという創造欲を発揮しきれなければ、充実した人生とは決して言えるものではないと自分は考えています。
とすれば、自分を捧げ尽くしたい何かを探すのが、学生時代のあり方なのでしょうし、それが根の張った労働観に結びつくと思います。
誰かや何かのために生きようとする姿勢は、なぜ生きるのか?なぜ働くのか?といった哲学的、根源的思考がなくして確立できないはずです。
時給や待遇ではなく、自分にとって意義あるコトなのかどうか?
そんな観点から、本来、職業は選ばれるべきではないでしょうか?
また、そうした労働観を確立していくがための本来の教育はあるべきなのではないでしょうか?
自分たち大人が醜態をさらすことなく、しっかりしなければいけないとつくづく思います。
11月4日(月)心学講
11月11日(月)心学読書会
質素、倹約、勤勉。
一見つまらなそうな事柄の中に人生の充実がつまっていると自分は考えています。
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