澄み切った境地

ちょうどプロペラがフル回転しているときは、無いように見える。無いのではない。もっとも活動の極みにある。それと同じで我々が今行為していることに成りきり、全身心を挙げて活動している時は、誰でも自分だ他人だと思う余分な雑念がない。知らずに無心になって澄み切っている。

(形山睡峰著 禅に問う より引用)


澄み切った境地。


本当は誰もが憧れる境地なのでしょう。


余計な雑念、妄念もなく、ただひたすら目の前のことに取り組んでいくことに人は、本当の幸せを感じるのではないでしょうか?


所謂、無私という境地。


何かに夢中になっているとき、人間なら誰しもこうした境地を体験しているはずです。


だから、「悟り」というのは、特別なことではないのだよとこの本には書かれていました。


世間では、特別なことやうまい話しがさもあるかのように錯覚させる情報がたくさんあるようです。


しかし、地に足をしっかりつけて物事を考えてみれば、道理というものをなんとなく感じることができます。


つまり、インチキか?本物か?の見分けがついていくようになっていきます。


我という自意識に汚染されているとそれがわからなくなります。


仕事は修行の場と言われます。


禅でいうところの坐禅に相当するものなのかもしれません。


澄み切った境地に至ったとき、我も他人もないという感覚を覚えていくのかもしれません。


他者批判、社会批判をどこか他人事としてしているようでは、まだまだ本気になり切れていないのだと自分に言い聞かせる日々です。


今日も一日、しっかりと目の前の仕事をしよう。


と、濁った境地にいる自分に言い聞かせ、日記終了(笑)


心学商売繁盛塾

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