我という意識

自分という意識が強くなるほど、生きるのがつらくなっていくような気がします。


ところが、自分という意識は、中々に根深く、しぶといものです。


無我と簡単に書けますが、人間の生存本能と直接に結びつくためか、容易にはなれない領域のようにも感じています。


しかし、自分がイライラしたとき、落ち込んだとき、怒り心頭したときのことなどをよくよく省みてみるとなんとなく気がつくことがあります。


それは、自分という意識が強い時なのです。


自分ばかりが〇〇してやっているのに!


自分ばかりがなんでこんな目に遭うのか!


自分だけなんでこんな損をするのか?


仏教の世界では、本来自分なんてものはないなんてことを言われます。


でも、今の自分にはあまりよくわからないのです。


その一方で、良からぬ感情を抱いているときというのは、自分というものへの意識が強くなっていることはどうも間違いないような気がします。


大樹があり、その葉っぱが我々の命、存在だという話を以前、聞いたことがあります。


そして、その葉っぱは、大樹の未来のために死に、朽ちて、腐葉土となっていきます。


どんな立派な葉っぱだろうと、どんなに小さくみすぼらしい葉っぱだろうと関係なく、最後には大樹に還元されていきます。


つまり、葉は一枚一枚分かれていても、大樹という大元とは切っても切れない命ということになります。


ひとつ命という言葉もあります。


これだけ聞いても自分はよくわかりませんが、大樹と葉っぱの関係にすれば少しわかるような気もしてきます。


我という意識が強いほど視野が狭くなる一方、その意識をなくすほど人間の器は限りなく大きくなっていくとも言われています。


こうした過去の出来事を心の痛みと共に反芻すれば、なんとなくわかるような気もしてきます。


今は、写真にしても文章にしても、動画にしても誰もが簡単に発信できる時代となりました。


それはそれでとても有難いのですが、その反作用というものにも目を向けなくてはいけないなと思うのです。


自分を意識するほどに苦しく、つらくなるという事象。


二千数百年前に明らかにされた仏教という真理の中に明確に述べられている無我や三昧という諦念。


それとは逆に進むことで増える自殺者、心の病・・・。


自分という存在を守ろうとするほどに増えていく皮肉もあるのではないか?と思えなくもありません。


逆に考えればそこから離れるほど悩みからも苦からも解放されていくような気がするのです。

と、このように仕事とはまったく関係のないことばかり考えています(笑)


しかし、こうした思念の積み重ねが、本当に仕事や生き方に自ずから役立ってくるのだとも感じています。


まずは、縁あることに思い切って身を投じていくことが肝要なのでしょうね。


8月12日(月)心学講~読書は本当に商売繁盛をもたらすのか?


大切だと思えないことが、実は大切だったりもしますよね。


遠まわりだと思えることが、案外と近道だったりもするかもしれません。

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