『坐禅をどんなことであれ何かのご利益を得るための手段におとしめないということ、これはやはりとても大事なことです。そうでなければ坐禅が本来持っている無限の価値が、その素晴らしさが、台無しになってしまうからです。求めて得たものは必ずいつか失われます。求めないという豊かな世界をわれわれに開いてくれるのが坐禅なのです。中略
坐禅をしてその見返りに何かを得ようとする、その何かがいかに高尚なものであっても、そういう打算的な凡夫根性で坐禅を自分の方に引っ張り込もうとするところに、坐禅に関するあらゆる間違い、錯誤が生じてくるのです。中略
坐禅をして何か良いものを得よう、手に入れよう、何かの足しにしよう、と思うのは、普通の人間としては至極もっともなことだと思います。それがわれわれ凡夫の抜きがたい習性なのですから。しかしだからこそ、そういう習性から行われるのではない坐禅がわれわれにとって仏からの有難い贈り物となるのです。
そこをガラリと転換するということが坐禅の一番大事な勘所です。
坐禅の功徳は凡夫が相手にされず途方に暮れているまさにそこのところで輝いているのです。
坐禅というのは、それをすることで何かを得て自分が納得し、物足りるという、われわれが日常いつもやっているような功利的な、利己的な、その意味ではまことに人間臭い営み、ではないということです。その路線の延長線上に坐禅を置いてはいけないのです。それと引き換えに何かいいものを得ることができるから坐禅をするといった損得勘定、取引勘定で動くメンタリティそのものをまずすっかり棚上げして、相手にしないで、実践していくのが坐禅だということをあらかじめよく理解して坐禅に向かわなければなりません。』
坐禅を最近では、マインドフルネスと呼ぶこともあるのでしょうか?
ただ、そう表現すると、どこか(ビジネスなどに)利用しようという匂いがしてくる気も・・・。
ところで、ここの坐禅という言葉を「商売」という言葉に置き換えてもう一度読んでみてください。
すると、あら不思議。
商売というものの根本的な姿が浮かび上がってくるように思えたのは、私だけ???
9月23日(月)16時30分より形山睡峰師講演会 篠崎文化プラザにて開催
なお、心学講~繁盛の卵~はその前(14時から16時まで)にやっております。
こちらもお待ちしています。
「商人道とは仏の道。」とは、よくいったものですね。
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